伊藤弘治さんの投稿-1(2008-2-2)



 伊藤さんが、妹さん(弘子さん)から送ってきた写真を私に転送して下さいました。
弘子さんは私の子供の頃の記憶では、凄い美人の優しいお姉さんでした。

 多分昭和45〜50年頃の冬の大滝と思います。…当時は凄い豪雪だったんですね。
今の大滝では、40〜50cm位しか積もらないと思います。
今騒がれている地球温暖化を実感する昔の大滝の積雪量です。

 伊藤さんのご実家の前付近の道路で、平家(ひらや)の軒下まで届く豪雪を越えて通行しています。
後ろの小さい女の子は、今では35才前後になっていると思われます。




下の写真も弘子さんのご提供だそうです。
多分、JR(当時は国鉄)奥羽本線(福島-山形線)の赤岩に行く道の辺りから写した冬の大滝です。
JR奥羽本線(福島-山形線)赤岩駅についてはここここ及びこちらを参照してください。

 昔の大滝には徒歩以外の交通手段が無く、町に出るには赤岩駅まで山道を3時間位歩いて峠を越え、そこから汽
車に乗り福島市に出るのが一番の近道でした。
 私が小学生になる前に、紺野剛さん(賢一さんのお父さん)の実家の裏のスモモの木から落ちて右腕を骨折した時
も、母に手を引かれてこの道を使い、福島の病院まで通ったのを今でも鮮明に覚えています。・・(あのスモモの木は
今でも有るのかなぁ??)

 暫くして、大滝木炭組合で車(小型トラック)を所有するようになってからは車で飯坂町に出たほうが便利が良くなり、
そのうちに大滝の人達もバイクを所有するようになると、バイクで飯坂に出るようになり、この山道は、お不動様への
参拝や山菜採り、ヤマメ・岩魚獲り等に行く人しか使わなくなって、廃れてしまいました。

 この木炭組合のトラックは本業の木炭運搬以外にも、大滝に楽しみを増やしてくれました。
トラックの荷台に幌をかけて、大滝の人を荷台に乗せて色んな所へ連れて行ってくれました。
(福島市松川の花火大会見物、小名浜??への海水浴、福島体育館へプロレス見物、木下サーカス見物…等々)
よく、『幌がら顔だすんでね !! 警察っ様にめっかったら怒られっぺ!!』と、注意されていました。
  力道山やジャイアント馬場・アントニオ猪木を生で見た時の感激は、今でも忘れません。
力道山が暴漢に刺されて死んだのは、私が中学二年生の冬でした。寄宿舎の先生が、『おい、大変だぞぉ!! 力道山
が死んだぞぉ』と教えてくれました。力道山は国民の英雄でした。

 二つ下の写真に見られるように、大滝には昔から自転車を所有している家が多かったのですが、赤岩駅に行く道
は、狭く険しく危険であり、自転車では行けませんでした。
 赤岩駅に行く峠越えの頂上付近には、大滝のような大平(おおだいら)集落と大平分校があり、ここで休憩し、ここ
から赤岩駅までは急勾配だが下りの山道になるので、ホッと一息でした。
 また小学校高学年に成ると、先輩や同級生達と先生に引率されて、この大平分校までソフトボールの試合をしに何
度か山道を往復したのも覚えています。

 自転車といえば、昔は子供用の自転車など買ってもらえるはずも無く、大滝の子供達はみんな大人用の自転車に
三角乗りをして、器用に乗りこなして遊んでいました。
もちろん私も中学生頃までやっていました。・・・・・・・・・・女性でも強者(つわもの)は上手く乗りこなしていました。

 当時、三角乗りは全国的にやっていたようです。ちなみに下の写真は九州の筑豊地方の写真です。


 そういえば、この話とは直接関係無いんですが、万世大路の「杉の平」地区にも分校が在り、運動会などの時に交
流していた事も思い出しました。( 勿論、みんなで歩いて行きました。)

 やがて私が小学6年生の頃になると一日二往復ですが、福島交通のバスが運行するようになり、中学校は飯坂町
の大鳥(おおとり)中学校へ通うようになりました。 
 バスが雪で運行できなくなる11月から3月一杯は、大鳥中学校の敷地に作られた大滝の学生のための寄宿舎に
宿泊し長期間そこで親と離れて暮らし、中学校へ通っていました。寄宿舎生活も楽しいものでした。
 蛇足ですが俳優の佐藤B作は中学生時代の私の同級生です。

 福島交通バスの運行には大滝の人達が苦労して何度も福島市に陳情を重ねて、ようやく実現できたようです。
(福島交通は赤字覚悟で、市の要請を受けての僻地救済慈善運行でした。)

 そうこうするうちに、国道13号線バイパスの道路工事が始まり、大滝の大部分の大人たちは、炭焼きを中断し道路
工事の人夫として働き始めました。…高校生になっていた私も道路工事のアルバイトで稼いだお金でずっと欲しかっ
たカメラを買ったのも楽しい思い出です。
 そしてこの工事に従事して得た現金収入の魅力が、大滝の人達の離郷を促進し、町に職を求めさせ、結果として
大滝廃村に拍車をかけることになったことは、本当に皮肉な結果です。

 炭焼き時代の大滝では炭を焼いて得た収入は、衣食住の為の前借り金返済や、炭の原料の原木の払い下げ支払
金に消えてしまい、ほとんど現金は手元に残らなかったそうです。
 現金が必要な時には、木炭組合から前借したり、炭を買いに来る業者から借金したりしていたそうです。
その一例として、私の祖母が50歳代で亡くなった時には葬式代が無く、父が業者から借金して葬式をだし、数年が
かりで返済したそうです。・・・父の苦労が偲ばれます。

 でも、木炭が高値で売れた最盛期には、このページの写真のように、親子で旅行を楽しむゆとりのある時代も有っ
たようですが、それも数年で終わり、石油の時代に移るとたちまち貧乏な大滝に戻ってしまったのが現実のようで
す。
 大滝の最盛期はやはり明治から大正時代の宿場とし活況を呈していた頃で、飯坂一派手な大滝と言われていた
そうです。

人間って不思議ですね、たった1枚の古い写真から、こんなに多くの想い出が蘇ります。

左側には私も学んだ旧大滝分校、中央手前には新しい分校が撮っています。
新しく出来た分校が有るので、昭和45年前後の風景ではないかと推測します。




一番上の写真と同時代の春、雪解け頃の大滝です。
 左側一番手前が伊藤さんのご実家(高野孝治さん宅)です。
次が明治天皇御休憩の碑が有る渡辺要一さん宅、その次が渡辺清治さん宅、その奥に渡辺清治さんの納
屋が一寸見えています。
 左の一番奥が私と同級生の須田信夫君の実家(須田儀左門さん宅)、右側には紺野賢一さんのお父さ
んの家がハッキリと写って居ます。
 その後ろに我が家が有ますが、賢一さんのご実家の後ろに隠れて見えません。

 渡辺清治さんの納屋と須田信夫君の家の間に見えている、小さい小屋は繭乾燥所だそうです。
繭乾燥所とは、繭を出荷した後に繭の中の蚕のさなぎが羽化して蛾に変身し、繭を食い破って出て来るために、繭
の品質が低下するのを防ぐ目的で、繭の中のさなぎを駆除をするため高温乾燥した部屋だそうです。
 私が小さいころには何の場所か理解していませんでした。
 (消防ポンプ小屋とずっと思っていました)

この道路を手前奥に進むと大滝最後の家の渡辺角エ門さん宅があり、
もっと奥に進むと旧西川橋に至ります。



下の写真は、伊藤さんのご実家から西川橋へ向かう途中の坂道付近です。
 リヤカーを押している後ろ姿は伊藤さんのお父さんの高野孝治さんです、ご存命であったならば100才だ 
そうです。
 写っている小屋は伊藤さんのご実家の物置きだった建物です。
 道路の反対側には渡辺和雄さんのご実家(渡辺角エ門さん宅)が有りました。





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