明治22年 大平集落



今まで詳細がほとんど判らなかった、旧万世大路 大平駅集落の住居の状況が明らかになりました。 
初期入植(明治14年頃)者は全員(20家族)が元米沢藩士との伝聞が有ります。

中段に掲載の「明治22年7月大平駅住人の図」は、大平駅が伊達郡茂庭村から信夫郡中野村に編入替になった明治22年に中野村役場で作成された
古文書(地籍図・地籍簿・集落図)「大平引受書類」(福島県歴史資料館所蔵)から明確になった集落の住居状況図です。 

更に、
米沢市立図書館蔵の、嘉永2年・慶応元年・明治2年の各分限帳から
大平集落図に名が有る17名中、7名が元米沢藩士で有ることが特定できた。
入植(M14年)からわずか8年で残ったのは7家族だけとすると、それだけ生活環境が厳しかったと思われる。
特に豪雪地大平の冬期間の厳しさは想像に絶するものが有り、定住はかなり難しかったのではないだろうか?
それでもなお、居住者が頻繁に入れ替わりながらも昭和7年までこの大平集落は存在していた。
昭和7年の万世大路大改修工事のため最後まで残った6軒は立ち退きを余儀なくされ、全世帯大滝集落に移住した。

尚、明治4年に廃藩置県が実施されおり、明治2年の分限帳が米沢藩最後の分限帳であり、公文書ではこれ以上の調査は困難になった。

明治22年 (中野村 大平引受書類)
大平駅居住者氏名 
嘉永2年分限帳
(1849)
 年齢   慶応元年分限帳
(1865)
年齢   明治2年分限帳
(1870) 
 年齢
*浦井 只見      三人扶持 七石    26歳    *与板 三人扶持 七石   42歳      五番隊外張番 隊頭 二百石  46歳
*宮本 立之進               一番隊 *与板組 半隊頭 五十石  30歳
佐藤 庄兵衛                御鉄砲 一人扶持 二石  34歳   九番隊御鉄砲足軽 一人扶持 二石   38歳
佐藤 円(圓)                  二之大隊二番隊 一人半扶持 三石  32歳
佐藤 亦蔵 (安蔵?)                 御鉄砲足軽 一人扶持二石 *廻扶持  17歳
小山 運次郎                     雷撃隊 二番隊 *二俵  24歳
猪口 源五郎        元御弓 一人扶持 二石  8歳   元御弓 一人扶持 二石  12歳
荻(萩)原 富右衛門       御鉄砲 一人扶持 二石  22歳   御鉄砲足軽 一人扶持  二石五斗  28歳
                 
*須藤 兵八郎(初代)  *伏嗅(ふしかぎ) 組頭 百五石  42歳   与板 外張番組頭 二百石  58歳       
*須藤 兵八郎(2代目)             明治元年7月家督 二番隊与板 隊頭 二百石  40歳


* 浦井只見
   慶応元年の7石から、明治2年にいきなり200石に大出世しているがその理由は記録に無い。   
   戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))に対応するための抜擢と考えられる

   慶応元年の分限帳には記載が無い*宮本立之進の突然の重用も同様の理由か?
   米沢市立図書館によると、やはり戊辰戦争対応のため米沢藩士がかなり増加したとのこと。 

*須藤兵八郎…大平引受書類には名前はないが関連が深いため記載した。
  上記の初代兵八郎浦井只見は慶応元年には与板組の上司と部下の関係であり旧知の間柄だったと思われる。
  明治1、2年頃に外張番組頭(隊頭)職を浦井只見に禅譲した可能性が有る。

    明治7年には、中野村の木村善吉らと、米沢藩士・須藤兵八郎が、新道調査のため小川沿いを遡上して日野峠
  を抜け、米沢(赤浜)に至る新道の調査をした記録も残っており、翌明治8年に新道 (福島側:中野新道、 米沢側:
  刈安新道 )開削願を提出している。
  須藤兵八郎は大滝駅に初期入植しており、『明治15年1月 大滝の須藤兵八郎が大平に郵便取扱所営業を申請
  した』と福島市史別巻Y「福島の町と村U」 に記録が残っているが
その後許可になって大平に移住したかは
  定かではない。
   また大平駅にも分教場が在った記録が有り、文武両道に優れていた須藤兵八郎が開いた可能性が有る。
  須藤兵八郎が大平に郵便取扱所として予定していたのは、兵八郎の米沢藩士時代の経歴ならびに分教場、
  郵便取扱所の利便性から考察すると、その土地の広から下記地図の追願者貸与地13番地ではないだろうか?
  (郵便取扱所は許可が降りず断念し、大滝駅および大平駅には、永く住むことはなく米沢に戻ったと想定される。
  その根拠は、@明治22年の「大平引受書類には名前が無い。   Aまた「わが大滝の記録」誌に記載の有る 
  明治27年大滝入植成功者による福島県知事宛「官有地無代価下渡願」にもその名が無い。
  しかし須藤兵八郎が万世大路開削計画および大滝駅、大平駅の初期に大きく関わっていた事は間違いない。

   *万世大路および大滝駅・大平駅開設に関わったのが初代兵八郎か2代目兵八郎かは判然としないが、両駅
    ができた明治14年頃には既に初代は75歳近くなっていたはずだが、忍者の頭(伏嗅組頭)で、江戸時代末期は
    米沢藩とは旨くいっていなかった仙台藩を探るため明神峠を幾度となく越えて、伊達・信夫地方(現福島市)を
    探索しており地勢に詳しかったであろう初代兵八郎の可能性が高い。
      家督を譲った後、最後の一花を大滝宿・大平宿で咲かせようとしたのではないだろうか?

  …2代目兵八郎は初代の弟か子供と思われ大滝移住以前(明治元年)に家督を継いでいたようである。
   慶応元年(P55)の八郎は嘉永2年の須藤八郎と年齢も合致しており、活字化した時の誤植と思われる。

 嘉永2年分限帳 (上巻119) 慶応元年分限帳 (P55)  慶応元年分限帳 (目録)  明治2年分限帳 
       


*与板(組)上杉(景勝)家 家老 直江兼続(1560〜1619)の旗本 
           子孫に恵まれず直江家が断絶した後、関ヶ原の戦い以後徳川家康から減封され経済状況の厳しかった米沢藩から
          多くの家臣が兼続と親交の深かった(養子縁組等)本田正重の加賀藩に移籍する中、なおも米沢(上杉藩)に残った
          兼続の家臣達は、その優れた戦闘能力を買われ与板(組)と称され長く重用された。   
           米沢藩において与板組に徴用されることは、禄高は少なくとも大変な名誉とされた。
 
          与板名の由来は越後国(新潟県)三島郡与板町に在った直江兼続の居城(与板城)に発する。
*一石 = 1,000合 (江戸時代に1年間に1人が消費するとされた米の量=3合弱/日)。
*一俵 = 4斗(60kg) (明治時代の統一規格) ---  2.5表 = 1石   
*廻扶持 通常は設備や備品にあてるべき行政費を新規採用兵のために人件費に転用(廻し)たものを指す。
*伏嗅(ふしかぎ) = 現在のスパイ…忍の者  ・嘉永2年の須藤兵八郎は米沢藩のスパイ(忍の者)の頭領だった。

 また、同分限帳には 渋谷、斉藤、山田、皆川、笠原、渡辺、我妻姓は多数存在するが、「大平引受書」にある姓名との
同姓同名者は確認できなかった、しかし何れも大平駅入植者の親や縁者の可能性が大きく、さらに調査を進めています。

,, "皆様からの情報提供をお待ちしております '',,

また、わが故郷大滝集落についても、今後同様の明治や大正時代の地籍図や地籍簿が発見されれば
今はほとんど判っていない大滝集落入植初期の姿
(旅籠・西村屋の位置等)が判るものと期待しています。


福島市史別巻Y 「福島の町と村U」 には下表のような記載が有り宮本立之進と
浦井 只見が 大平駅の「陸運貨物継立所」の営業に に関わっていたことが判っています。
 福島市史
別巻Y
〜抜粋〜
 【 明治20年6月の 「陸運物貨継立 営業者規約」 には 大滝 :近野庄右衛門
  ・堰場:佐久間伴右衛門  ・大平 :宮本立之進代理 浦井只見の三名を見ることができ、
  30年10月には 佐藤末吉 が大滝に営業を認可されている 、
  また大滝の須藤兵八郎は、明治15年1月に大平に郵便取扱所を設置し、その取扱いを
  させるよう願い出ている



以下の資料は大滝会 渡辺文朝様が福島県歴史資料館に出向いて古文書を写真撮影して下さいました。
(旧万世大路の歴史的事実解明に一石を投ずる、大変貴重な資料であり、深謝致します)
ゴシック文字の住人名は地籍簿を基に追記しました (HP管理人 紺野文英)





以下は 福島県歴史資料館文書からの写し (撮影提供:渡辺文朝様)

[ 大平引受書類 信夫郡中野村役場 明治廿二年七月三十日 (中野村長 中野繁蔵 記) 信夫郡長 田中章 宛 ]
*注 中央の中野村の整理文書(ペン字)では明治20年(1887)となっているが、当ホームページでは右の墨書の日付を採用した。