大滝 歳時記



私が知っている時代(昭和30〜40年代)の大滝集落の主な年間行事等を、思いつくままに記録に残したいと思います。
こうして纏めてみると、楽しみの少なかった山村の大滝では、何かにつけ、楽しみを作っていたように思う。


尚、月日は旧暦と新暦が入り混じっている可能性が有ることを、お断りしておきます。

月 日  行 事  内  容 写真など 
1月1日  (あかつき)参り   毎年1月1日の0時を過ぎると、われ先に各家庭から提灯をぶら下げて、家族全員が雪道を山神神社に初詣に行った。

 山神神社には青年団が交替で詰めており参拝者にお神酒(みき)を振る舞った。
お神酒をいただいた後、山神神社に参拝し一年間の、家族の平穏と山仕事の安全を祈願した。 
当時の山神神社の社 (大滝会員の投稿写真より)
 

山神様に初詣祈願 (わが大滝の記録誌より)


 1月15日  小正月  山から枝の赤い「団子の木」を切ってきて、餅を小さく丸めた赤や緑や白のアラレを作って団子の木に挿し、神棚や台所、便所などに飾り、家じゅうの各所の神様にお礼をした。 

 お祝いの時期が終わると、この餅アラレは木から外され、油で揚げられて子供のおやつになった。
団子の木とアラレ飾り (他HPからの借用画像)
 

2月3日   節分  各家庭で夕飯前に、その家の主が大きな声で 『福は内、鬼は外』と言いながら豆(大豆)を撒いて、厄除け祈願を行った。 

 また、この日はメザシの頭を串に刺して、玄関横や裏口とかに飾り付けた記憶も??、何のおまじない?、鬼除け??…親に聞いても明快な答えは返ってこなかったような記憶が有る。

 
 3月3日 ひな祭り   各家庭で、ヨモギの若芽を採取し緑色の餅と、くちなしの実で黄色く着色した餅、食紅でピンクにした餅等を作って菱形に切って神様や仏壇に飾って祝った。 

 女の子供がいる家ではお雛様を飾って子供の健康を祈った。
ひし餅 (他HPからの借用画像)
 

5月 消防出初(でぞめ)  毎年5月上旬の八十八夜の日に、手押し式の人力消防ポンプで各家庭の屋根に放水し一年間の防火を祈った。

 この時期は山菜採りのシーズンでもあり、近隣から山菜採りが訪れ、煙草火による山火事等の注意喚起をも兼ねて行われた。

手押し式消防ポンプ (こんなのが荷車の上に載っていました。)
(他HPからの借用画像)
 


 5月 教諭慰労会    開始時期はS34年頃からと思われるが、八十八夜の前後の日曜日に、飯坂の大鳥中学校から校長や教頭、教師を招いて大滝木炭組合の二階で教師への御礼の宴が催された.。
 またこの月にできなかった年には、7月または8月の盆踊りや夏祭りに行うこともあった。。 


写真無し 
 5月5日  節句  各家庭で笹の若葉を採ってきて、もち米の入った三角の笹巻(チマキ)と、中に小豆あんこを入れた小麦団子の団子巻を作った。
チマキと団子巻きは、家の中の鴨居や竹の棒に沢山吊るされ、子供達のおやつになった。


 また、各家庭の玄関の軒下にはヨモギと菖蒲の葉が飾り付けられ厄除けとされた。
また、風呂にも菖蒲が入れられ菖蒲湯で健康を祈願した。
笹巻(左)と団子巻(右) (他HPからの借用画像)
 

 軒下に菖蒲とヨモギを飾りつけた高野家
 (大滝会員の投稿写真より)
これは雑穀のアワを干しているんだそうです
よく似ていたので私はてっきり菖蒲とヨモギの飾りつけと思っていました。
お詫びして訂正いたします。(令和元年12月)


 旧暦7月 盆踊り  旧暦7月14,15,16日に、須田儀左衛門家と山岸家の間の道路に、盆櫓を立て夕刻から笛や太鼓を打ち鳴らし、賑やかに盆踊りが実施されていた。

 初めは分校の校庭で開催されていたが、13号バイパスが完成して、旧万世大路の交通量が減った頃から
須田家と山岸家の間の道路で開催されるようになった。



 また、この時期は墓参りの時でもあり、墓参を兼ねて故郷を離れていた親類縁者も里帰りをしてきた。

盆踊り (わが大滝の記録誌より)


先祖の霊が眠る、当時の大滝共同墓地 (わが大滝の記録誌より)


 
旧暦8月   お祭り
山神神社祭礼
 旧暦8月17日は氏神様(大滝山神社)の祭礼日である。 

 青年たちが中心になり山車(だし)樽神輿(たるみこし)を作り、子供達と一緒に葭沢から胡桃平まで集落全体を練り歩いた。


 大滝を離れて町で生活していた兄弟や親戚もこの日は大滝に里帰りしてきた。
夏祭り…大滝付近 (大滝会員の投稿写真より)
 

夏祭り…葭沢橋付近 (大滝会員の投稿写真より)


 9月 (まゆ)かき   大滝では副業として養蚕もしていて、繭の出荷が近づくと「繭かき」と称するお祝いをした。

 小麦粉を練って繭に見立てた白い団子を作り蒸しあげ、神棚や仏壇に供え、繭の無事な出荷を祈った。

勿論、家人も きな粉をかけて食べた。
繭と繭かき団子 (他HPからの借用画像)
   

10月  (かま)ぶち祝い   毎年、営林署から その年の炭焼き山の原木払い下げが決まると、近隣の数軒が協力して山に炭焼き窯を造った。 …新しい炭窯を造ることを「窯()ち」と言っていた。

 炭窯が出来上がると、その家では協力してくれた家の主を招いて『窯ぶち祝い』の宴を開いた。

 これは、山の大きさによって夏山と冬山の2回行われることもあった。10月は冬山の窯ぶち祝いである。
炭焼き窯 (大滝会員の投稿写真より)
 

炭窯から真っ赤な炭を掻き出す (大滝会員の投稿写真より)


10月  運動会   分校の運動会は、村中あげての一大イベントだった。子供も大人も先生も全員参加して、運動会を実施していた。 

 大滝を遠く離れ、飯坂や福島で生活していた兄弟親族なども、この日は駈けつけて参加したものでした。
大滝大運動会の風景 (大滝会員の投稿写真より)
   

11月  学芸会   分校の学芸会も大滝集落あげての の大イベントでした。

 子供は分校で学んだことの成果発表を、大人は自慢の扮装で演劇を披露したものです。

 この日は運動会と同様に村中仕事を休んで、父ちゃんも母ちゃんも、ぢっちもばっぱも全員見に来たものです。


 
お遊戯を披露する分校生徒と
演劇で平手造酒(ひらてみき)に扮した渡辺正義さん

(大滝会員の投稿写真より)
   

 11月 (かや)刈り   栗子の大平や古屋敷などの共同の萱場で一斉に萱刈りを 実施した。

 萱は屋根材や炭俵(スゴ)の材料となる大切なもので、また雪が降り出すとその萱を家の周囲に立てて防雪・防寒材とした。

 萱とは、ススキが晩秋に立ち枯れしたものを云う。

         当時の炭俵(スゴ)
     
大滝出身の土井画伯の描かれた絵にも、萱の雪囲いが見られる。
(提供:土井佐知子画伯)     
                    
    
   スゴ編みをしている様子(高野家)
(大滝会員の投稿写真より部分抜粋)
 
 12月末 年末大掃除   お正月が近づいた頃 、集落が一斉に大掃除をした。

 この大掃除は大掛かりなもので、みんな手拭いでほっかむりとマスクをして、畳や
を剥がして雪の上で棒でたたき、1年間のゴミを払った。 
 囲炉裏の煤で家中が汚れており、雪は埃で真っ黒になったものです。

 また、天井板など張っていない家の藁屋根裏を、長い篠竹を使って煤払いをした。

こうして、正月を迎える準備を整えたものです。

 篠竹は高野家の裏の土手に植えられており、この時期になると、高野家に貰いに行きました。

 なお、「大滝の記録誌」では春の5月頃に「衛生掃除」として行われていたと記載されていますが、私には年末の大掃除しか記憶に残っていません。


写真無し 
 11月
〜5月
 火の用心  この期間は夜7時頃になると、大人と子供が2,3人組になって、村中を拍子木をカチカチ鳴らしながら『火の用心』と大きな声でふれまわりました。
 

 大滝の家は萱ぶき屋根で燃えやすく、消火設備も前述の手押しポンプしかないため消火は難しく、応援の消防車が中野村や飯坂町から駆け付けたころには既に全焼しており、火の用心は大滝集落では再重要注意事項でした。


 私が覚えている限りでは、大滝の火災発生は一度だけでした。
13号バイパス工事の時に、工夫の宿舎として貸していた渡辺広一さん方の物置から出火し全焼しました

萱葺き屋根の続く大滝橋付近の家並み (大滝会員の投稿写真より)


胡桃平地区 (大滝会員の投稿写真より)


不定  映画会   いつ頃からかは判らないが大滝では青年会などが、飯坂や福島の映画館と交渉して映写技師と映写機、古いフイルムを借りて、年に1回程度、映画会を開いていた。

 私が見た記憶のある映画は、市川歌右衛門や片岡千恵蔵など東映オールスター出演の「忠臣蔵」や、宍戸錠のデビュー作「警察日記」、大川橋蔵の「新吾10番勝負」などである。
あ、子供向けの漫画映画もありました。

 上映スタイルは当時の映画館と同じく、ニュース映画等を挟んでの3本立て上映だった。

 父母たちは当時は未だ映画を「活動」とか「活動写真」と言っていた。

 会場は、分校や木炭倉庫だった。

開催日が近づくと木炭組合横の掲示板に、開催案内と映画のポスターが貼られた。

 テレビが大滝の各家庭にも入るようになると、自然消滅的に開催されなくなった。


写真無し