大滝住民が創立に関わった 「青葉学園」


  今まで「青葉学園」については、非公開としてまいりまいたが、平成27年(2015年)8月11日に福島放送(KFB)ローカルニュースで
 特集として「青葉学園」の歴史がTV放映されましたので、秘匿性は無くなったものと判断し 当ホームページ上でも公開します。
                  (著作責任者:紺野文英、  初期編集:2014年8月、  追加編集・公開:2015年8月、 追加訂正:2017年9月)


  ネット上の知人のTUKA氏から、昭和20年代に大平集落付近に在った私学校について何か知らないかとお尋ねが有った。
 TUKA氏のもとへ、ある方から、『あちこち探したが昔の学園(学校)跡を見つけることができなかった、何か知っていれば教えて欲しい』
 とのことだったらしい。
  その数日後、その方が、学校名は青葉学園だったのを思い出したとのこと、青葉学園は『大平集落と旧万世大路ルート上の学校』とのこと、
 栗子の大平集落は昭和7年に消滅(全世帯大滝に移住)しているので年代からして有りえない。
  残るは・・・大笹生の大平集落しかない、そして大平集落と旧万世大路のルート上と言えば赤岩道か菱川林道しかない。


 
 ネット検索したら青葉学園が福島市土船に現存していた。
 さらに青葉学園は公式のホームページを持っており、そこには青葉学園の創設時からの歴史や教育方針が書かれていた。
 ホームページは下記であるが、創設者は国語学者、ローマ字の普及者として高名な
三尾砂(みお いさご)で有ることが判る。
  http://f-aobagakuen.or.jp/publics/index/43/
 身寄りのない子供たちを教育しながら育てたいという崇高なお考えのもとに奥様と共に、
 目的地を福島県に定め、昭和20年4月に東京から福島市飯坂町中野字東横川に転居し、分教場
(中野小学校 杉の平分校と思われる)の助教をしながら
 子供達を育てる園舎にふさわしい土地を探していたようである。
(青葉学園HP 「三尾砂ことばの資料室 三尾砂年譜」より)
  この児童(孤児)に対する並々ならぬ思いは、 大学生時代に児童心理学を専攻していたことが大きく影響しているのではないだろうか?

 青葉学園のHPからは創設者 三尾砂氏のご意志が変わることなく脈々と引き継がれ、多くの卒業生を輩出していることが判ります。

   ホームページから創設以来の歴史を転載すると、下記のようになっている。

   

昭和21年 6月 三尾砂、旧伊達郡茂庭村俗称蛇体に青葉学園を創設
昭和23年 4月 私立青葉学園小学校が認可される
昭和23年 5月 児童福祉施設として認可される 
昭和23年10月 旧信夫郡大笹生村俎山に移転する 
昭和26年 3月 私立青葉学園小学校閉鎖 
昭和28年 4月 社会福祉法人に組織変更 
昭和30年 5月 現在地、福島市土船に移転する 


 え!!、 茂庭村蛇体に創設!?

   そういえば……確かに私(紺野文英)も、亡き父から 『 昔、蛇体に身寄りのない子供たちのための学校が在った 』 と、聞いた覚えがある。
   また、大笹生俎山といえば福島市大笹生の十六沼学園が在る付近の事だ・・・、昭和23年に蛇体から十六沼付近に学園は転居したのか??
   色々な疑問点が出てきた。 
    しかし未だ私が生まれる前の出来事でもあり、私だけで調べることには無理を感じた、ここは大滝の諸先輩達を頼るしかない!

 早速、元大滝住民の諸先輩や大滝分校の同級生に電話をかけまくり、手紙やメールで情報提供をお願いした。
   その結果、下記の点が判ったのである。

 1、確かに蛇体に元鉱山住宅跡を利用した『青葉学園』が存在していた。 … 蛇体は烏川
(からすがわ)流域の地名
   開設時は当時(昭和20年代)の大滝青年会が荷運びなどをボランティアで支援していたとのこと。
   蛇体鉱山と青葉学園の位置や大まかな蛇体道を、大滝の古老の皆さんに地図に書き入れて頂いた。
(巻末の地図参照)
   蛇体の園舎(鉱山宿舎跡)付近には、茶碗のかけら、その下の川の中には鉱山当時のトロッコレールの残骸が有り、今でも残っている筈とのこと。
   また、宿舎跡地の近くにもトロッコレールが有りその横には選鉱場と思われるコンクリート製の遺構も在ったとのこと
(大滝会会長談)
   鉱山時代
(明治30年末〜大正初期)は、烏川両岸にトロッコ軌道を敷設して(渡して)鉱石運搬道としていたしていたようである。
   その頃の鉱山宿舎が青葉学園創設の昭和21年迄残っていたという事実にも驚きである。
                … 廃屋をキノコ採りや山菜採り時の休憩所として使用するため維持管理されていたのかもしれない?

 2、蛇体に創立後まもなく、大滝住民の『冬の蛇体は危険が多すぎる』との意見を受け、雪が降る前に中野大桁に転居したとのこと。
(三尾真理氏談)
   なんと、中野大桁の転居先は現国道13号中野第2トンネルの米沢側出口付近の旧万世大路沿い在った、中野鉱山の事務所跡を利用したとのこと。
   この時の移転にも大滝青年会が大いに協力している。

 3、S28年頃大滝から奥羽本線赤岩駅近くの大平集落
(昭和20年開拓集落)に転居した蒲倉家出身の木村努・ヨネ子ご夫妻(元大滝住人)の話によると、
   赤岩道と菱川との合流点付近(俎山)に『青葉学園』が在ったとのこと…蒲倉家に行くときに、赤岩道からいつも見ていたとのことである。 
   菱川(俎山)移転時も大滝住民が協力している 。
    青葉学園に俎山園舎新築
(下記写真の説明文参照)用地を貸したのは飯坂町平野村村長の紺野繁右衛門氏とのこと(福島放送KFB関係者情報)、
   しかし大滝住民の間では大滝から大平に移住した「斎藤乙次郎」氏の土地として記憶されている、何らかの事情で斎藤氏から紺野繁右衛門氏に
   所有権が移動したのかもしれない。

   驚くことに木村ヨネ子様は漢字は思い出さないものの、創設者 みお いさご氏 のお名前も記憶しておられた。


  ここで、大きな疑問にぶつかってしまった!!・・・・ 3、の俎山は?? 十六沼付近の俎(板)山とは違うのか???

  打開策として、青葉学園ホームページ管理人に連絡を取ってお尋ねしてみることにした。

  結果、三尾砂
(いさご)氏のご子息で青葉学園・「三尾砂ことばの資料室」の三尾真理(しんり)氏から回答をいただくことができ、
  『亡き父に、「創立から俎山時代まで、大滝の皆さんには大変おせわになった」 と聞いています。』 との言葉もいただきました。
  さらに青葉学園開設時の貴重な資料のご提供も戴くことができました。
・・・真理氏は中野鉱山の園舎でお生まれになったそうです。

   以下にその資料を転載致します。

           
各写真や記事の著作権は青葉学園様が所有しております。
             青葉学園様の許可なく、下記記事・写真の二次使用を厳禁致します。

   



 
大桁園舎玄関前で学習中の生徒と三尾先生
これらの園舎跡は既に土に還り、今では何も残っていない


 
 新築にあたっては、中野鉱山の鉱山事務所跡の園舎での生徒たちの惨状を見て
 福島大学教授だった川本安太郎氏などが福島市に陳情し実現したとの話もある。
 中野鉱山出身の遠藤常男様 (現福島市飯坂町中野高取前にある遠藤常男工務店
 社長)談   (2017年9月追記)
 福島市や国会議員(天野光晴)の支援(資金援助)も得てできた新園舎ならこの大きさも
 納得できる。
 三尾砂先生の自費ではこの大きさの園舎新築は到底無理なようにづっと感じていた。
  こちらの園舎も今では土に還り、ここで学んだ人が跡地の探索をしたがが見つける
 ことは出来なかった。

 

  

  ご提供戴いた上記の年表から、蛇体にはS21.6〜10月迄の5か月間 、大桁(中野鉱山)にはS21.10〜S23.10月迄の2年間、
 S23.10〜S30.6月の間は菱川の俎山(約7年)であることが判り、奇しくも
元大滝住人の諸先輩から戴いた情報と合致する結果となった。


【2015年8月23日 追記】

 
 青葉学園ホームページの「創立者物語」には、  http://f-aobagakuen.or.jp/publics/index/51/

   
『 戦争の敗戦を早くから予知した砂は、敗戦後の日本を思い、将来を担う子どもの教育を現実的に考えるようになりました。
    一つは、戦争で孤児となった子どもを親として養育すること、もう一つは、心にあたためていた理想的な子どもの教育の実践でした。
    砂が考えたのは、人里離れた大自然の中での子ども達との生活と、小さな子どもでも簡単に読み書きのできるローマ字による教育
    でした。
    紆余曲折がありましたが、三尾夫妻はその夢を終戦の翌年、昭和21年6月に実現させました。それが 新国民教育研究所
    青葉学園小学校
の福島県の熊も出るような山奥での誕生です。』


  と有ります。

   つまり青葉学園 園舎内には ”新国民教育研究所” と ”青葉学園” が併設されていたことになります。
   三尾夫妻が戦災孤児の養育および教育を行った場所を ”青葉学園” と称し、 
   三尾砂氏が行っていたローマ字教育研究の場所(部屋)を ”新国民教育研究所” と称していたようです。
    三尾の各著作物の制作年から推測すると、この二つは園舎が蛇体→大桁→俎山→土船と移動しても、三尾砂の存命中は
   どの場所でも存続したようである。

       
【参考資料】 三尾 砂 全著作物目録  mioisagocyosaku.pdf
             
              *三尾砂最後の著作が、奇しくも大滝集落の廃村と同じ昭和54年というのも何か因縁めいたものを感じる*
           
 
               
*三尾砂氏は1903(明治36)年香川県に生まれ、執筆活動を停止してから10年後の1989(平成元)年に
                福島県で86歳で没している、これは元住民が大滝に集い大滝廃村10周年記念大会が開催された年でもある

             

【以上追記分完】


  それにしても山奥で暮らしていた元大滝住民達も驚くほど、更に深い山中蛇体で青葉学園が産声を上げたとは、、、、本当に驚きである!!

 さぞかし、食糧品や衣類等の確保や運搬などには相当のご苦労が有ったものと想像される。
 これらの運搬の労も当時の大滝青年会が主体となって協力したようである。

  また、大桁(中野鉱山)時代は丁度中野鉱山が一時閉鎖されていた時代と合致しており、閉鎖されていた鉱山宿舎を借りて園舎としたようである。
 昭和24年頃からは中野鉱山の児童が大滝集落の児童と一緒に大滝分校で学んでいることから、S24頃には鉱山採掘が再開されていた事が判る。
 鉱山再開に伴い転居を余儀なくされ、やむを得ず次の移転地、赤岩道の俎山に園舎を新設したと思われる。

  なお、三尾真理様からご提供戴いた上の地図から分かるように赤岩道と菱川が合流する地点にも俎山が在ったようである。
  (現在公開されている地図上には記載がない)
 十六沼付近の俎(俎板)山には転居した事実が無いことが後に判明した。


  また、平成27年(2015年)8月11日に福島放送KFB ローカルニュースの放映内容によると、三尾砂
(いさご)先生宛の書簡は
 「福島県信夫郡中野村大滝 教育研究所」 の住所に送られていたようである。
 
     【住所の 「教育研究所」 とはおそらく、青葉学園に併設されていた ”新国民教育研究所” のことであろうと思われる。
     
  当然徒歩で何時間もかかる蛇体までは配達されず、大滝集落で一時保管留め置きされたのであろう。
        それらは後日大滝住民のボランティアの手によって、生活物資と一緒に届けられていたものと推測される。
        このように、調査を進めるにつれて 『大滝住民の協力無しには青葉学園の創設は成し得なかった』 との思いが更に強くなった。】

  蛇体に場所を選んだのは、終戦後に日本がアメリカとソ連に分割占領された時のことを考えて、どちらからも遠い福島県山中を選んだとのこと。
  三尾砂先生宛の書簡の中には占領軍GHQや、三尾と同郷
(香川県)の『二十四の瞳』で有名な女流文学者(小説家・詩人)壺井栄先生からの
  手紙も有ったようです。                                   (以上、福島放送KFB ニュースの放映内容の抜粋)
  また大桁または俎山時代は、青葉学園でのローマ字教育は注目を集め、GHQの教育顧問や文部省の担当官も視察に訪れました。
                                                 
 (以上、福島放送FKB 内田智之様のブログから抜粋)
                                       
               

  
尚、今回青葉学園の取材を担当された KFB福島放送 報道制作局報道制作部の内田 智之様より、内田様のブログへのリンクの許可を
 いただきました。  下記URLをクリックしてご覧ください。(2015.8.19追記)(2017.1月URL変更・・・
HP容量の関係でか?青葉学園関連記事は削除されている
      http://www.kfb.co.jp/ana/uchida/

 以上が 『青葉学園』と大滝との関わりについて、現在判っている事柄である。

  なお、福島市在住の鹿摩様から現在の土船の青葉学園の写真をご提供していただいたので下に掲載します。

 
青葉学園(福島市土船) 正門  H260903撮影(鹿摩貞男様)
 
青葉学園(福島市土船) 正門近景  H260903撮影(鹿摩貞男様)



             最後に、現在の地図上に青葉学園の移動歴を表してみた。( @ → A → B の順 )

 

* クビト(首尾戸)については、大滝周辺に同じような名称の場所があり、判然としない。
   上記地図の蛇体道のクビト峠、 赤岩道の首尾戸山……
首尾戸の読みは 「しゅびと」 でクビトとは別なのか?


 終わりに当り、創設者三尾砂様の偉大な功績に敬意を称します。
   三尾砂先生の功績は孤児の養育と教育にとどまらず、ローマ字教育研究、日本語の文法研究の第一人者としても偉大なものが有ります。
      
     文法教育史における三尾砂の位置づけ 110007592994.pdf

 
 また青葉学園の創設およびその後の移転に、労力を惜しむことなく無償で支援した大滝集落の諸先輩には大きな感動を受け敬意を表すとともに、
 そのDNAが子孫の我々にも引き継がれている事を誇りに思います。


 
末筆になりましたが、今回の調査にご協力いただいた以下の皆様に厚く御礼申し上げます。

  ・三尾真理様
(三尾砂氏ご子息)…「三尾砂ことばの資料室」 http://www.kosodate-web.com/aobagakuen/kotoba.php
  ・KFB福島放送 報道制作局報道制作部 内田 智之様 http://www.kfb.co.jp/ana/uchida/2015/08/14/008911.html
  ・街道web管理人:TUKA様  http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/index.htm
  ・万世大路研究会幹事・大滝会特別会員:鹿摩 貞男様 
青葉学園跡に到達https://ootaki.xsrv.jp/aobajyatotatsu.html
  ・遠藤 常男様 : 中野鉱山(赤銅鉱山(通称アカガネ))出身 ・・・ 現 遠藤常男工務店社長 (福島市飯坂町中野高取前)
  ・大滝会の皆様 : 渡辺 智様、須田 信男様、木村 義吉様
(大滝会会長)、高野 英治様(大滝会副会長)
               木村 努様・ヨネ子様
(ご夫妻)
   
                (以上順不同)

  
・下記の記事も参考にさせていただきました。
        山口屋散人様 「蛇体道探索」  
http://ootaki.xsrv.jp/jyataimichi2.html
        
お ば ら 様 「赤岩道探索」     http://ootaki.xsrv.jp/page159.html


2016(平成28)年10月8日に青葉学園の創立70周年記念式典が行われました。
   
 新聞記事提供 : 鹿摩貞男様                               (2016年10月19日追記)           


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